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なせば大抵なんとかなる

日々の中で考えたことをだらだらと書き記すブログです。

相棒と、ボーイミーツガール。そして孤独

 弱冠21歳、今まで友人と呼べる人はいろいろいたが、相棒と呼べる人はほとんどいない。相棒は、親友と言い換えてもよい。

 思うに私は、相棒と呼べる人を欲しているのかもしれない。大学生活では、終ぞそのような人は現れなかった。あと半年、これから現れるかもしれないが、望み薄だ。

 相棒と呼べる人は、今まで2,3人いた。今では居住地も離れ、1年のうちに一度会えるかどうかの物理的距離が開いてしまった。会おうと思えば会えるのだが。相棒とは、私が勝手にそう思っているだけで、相手にとっては単なる友人の一人かもしれない。だが、それでいい。そんなもんだ。

 

 相棒への羨望はいつから始まっていたのだろうか。一番新しい記憶は、「空の境界」式と幹也だろうか。最終的に結ばれるが、劇中描写は不思議な相棒といった趣だ。「ソードアートオンライン」でキリトはストーリーごとのパートナーが変化するが、一番心に響いたのはユージオとの関係だ。その最後が悲劇的だからだろうか。だが、あの関係性は、とても憧れる。さまざまな恋愛物での恋人関係にも、毎度羨望を抱いていたように思う。D.C.Ⅲでの各ヒロイン、特にリッカさんに惹かれ、シャルルの姉パワーに溺れたいとも思った。最近、私の中で再燃している仮面ライダーも考えると、五代と一条さんにも憧れていたのかもしれない。友奈と東郷、りんぱな、アレルヤハレルヤ、アナキンとオビワン。印象的な相棒は数多い。

 上記の相棒には、セックスが伴ったり伴わなかったりしている。私の中にある情動として、単に性的欲求を吐き出す相手を求めているわけではなさそうだ。ツーマンセルというのは、やはり特別なのだ。

 

 大学生活において、寂しさを自覚する場面が多々あった。結局、人は孤独なのかもしれない。孤独という言葉を使うと、とたんに文章がポエミィにあふれてしまう。笑う人も、恥ずかしいやつと思う人もいるだろう。しかし最近、南條愛乃さんのアルバム「Nのハコ」の中の一曲、『ヒトビトヒトル』を聞く中で、そして南條愛乃さんのインタビューなどを読む中で、孤独を吐き出す、言葉にする、孤独であることを認めるということは、なにも恥ずかしくないことなのだと感じるようになった。孤独ということは、孤立ということではない。コミュニケーションを拒絶することを意味しない。どんなに言葉を尽くそうと、態度を示そうと、相手を100%理解してあげられるなどということはない。それは傲慢であり、果てには孤立を招くだろう。

 孤独は、……。誰もが抱えている……と思う。どんなに大勢と一緒にいても、ふと感じる独り感。それは誰もが抱えているが故に、恥ずかしくもなんともなく、必ず向き合うべき自己、と言えるのかもしれない。