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なせば大抵なんとかなる

日々の中で考えたことをだらだらと書き記すブログです。

「死」に触れる~DEAD OR ALIVEでしかモノを考えないのは若気の至りなのか~

 諸外国はどうか知らないが、日本では死に対する教育があまりなされていないように感じる。創作物等で見ることは多いかもしれないが、実際に死を感じる時というのは、身内が死んだ時ぐらいのものだろう。

 若者がすぐ死ぬ、という投稿が話題になったのはいつ頃だっただろうか。ここでの死は、SNSの投稿で見受けられる「死んだ~」「〇〇がつらい。死ぬ。」のような、実際には死んでいないけどネット上で死ぬ、みたいな名状しがたい死のことだ。「死」に対する観念が、漠然としているから、気軽に死ぬと呟けるのだろうか。わからない。

 私は今年の1月に父方の祖母を亡くした。久しぶりの実感を伴う死だった。実感を伴う誰かの死は、2度目だ。1度目は父方の祖父だ。ほかにも母方の曾祖父曾祖母を亡くしているが、関わりが少なかったせいもあって、実感があまりなかった。祖母の死に際して、私は言いようのない感情に襲われた。早すぎるとか、あっけないとか、父は両親を亡くしたとか、やはり心臓かとか、家で独りで死んだのかとか、葬式で父が見せた嗚咽?だとか。ぐちゃぐちゃだった。同時にこうも思った。報いなのでは、と。生前、かつ晩年の祖母はわがままを言うことが多かった。特に金銭関連で。支給される年金以上の金銭を使うことも多々あったのではないだろうか。足腰が弱り、病院通いと買い物にタクシーを使うことも多かったせいもあるだろうが、孫である私をパイプにして父に金を無心する電話には私は困っていた。寂しかったのかもしれないが、助けてほしかったのなら相応の我慢をどこかでする必要があったのだ。老いのせいだと思うが、晩年の祖母は、人への思いやりが消えかかっていた。80超えの人であったので、その世代の教育を受けていたことが想像されるとはいえ、老人としての姿を全うしすぎたのだ。老人は敬われるべき、という老人像を、体現しすぎた。2016年現在、そのような老人は、嫌われる。2015年の中頃に、あれ?と思うくらいの弱々しさを見せた瞬間が何度かあったので、今思えば「もうすぐ」だったのかもしれない。

 

 なぜこんな記事を書くか。劇場版「ハーモニー」の影響が大きい。この作品を見て、自分の中の死生観を今一度確かめたいと思ったのだ。

 肉体的な死、精神的な死、社会的な死。現代における死はこの3つだろうか。私の中の死とは……この3つすべてだろうか。わからない。肉体的な死は自分ではない誰かのものしか知らない。精神的な死は、「あの事件」による「誰か」が社会的に死にかけたことでもたらされた。社会的な死は、もうすぐ私に訪れようとしている。

 私にとっての死は、悲しい、怒り、憎しみ、無常感をもたらす。恐怖はない。人は死への存在であると、ハイデガーは言った。うまく言えないが、受け入れ難い現象であるとは言えるのかもしれない。